31個パスが「シンフォギアAXZ」を視聴した感想を書くだけ

はじめまして、石鍋 31個です。

 

さて、第一回としては、シンフォギアAXZ{4期}の感想を一期分通して描いていこうと思います。

今回の感想の中で1~3期の話にも触れますが、今後それぞれについてもちゃんと書くかもしれません。

 

 

あと、ネタバレについては盛大に書いていくと思います。ご注意ください。

 〈私は1~3期については、粗があることを認めたうえで擁護派、支持派です〉

本題に入りますね。

 

 上記のように、私はシンフォギアシリーズのファンです。

シンフォギアという作品には二期から視聴し始め、第一話からぶん殴られたような衝撃を受け、一期へと遡り、三期を視聴し、楽しみにAXZを視聴しました。

 

結論から言います。

 

AXZは酷過ぎました。

 

具体的に酷いと感じたところは3つのポイントです。

 

1つ目は『ストーリー面』

2つ目は『キャラクター面』

3つ目は『ラストバトル』

 

まず1つ目について書いていきます

 

シンフォギアシリーズに要求される最大のポイントは、キャラクター達が『実際に歌いながら超人的な力を発揮する』ことから生じる、ミュージカル的な快感とアニメーションの合致による感動がすべて、と言っても過言ではありません。

 

視聴すると1~3期ではそれぞれ力の入ったライブシーンがあり、映像美と楽曲の素晴らしさを実感できます。

某笑顔動画でいうところの「予算をすべて使いつくすつもりか」という称賛も多いシーンです。

また、大まかに説明するならばキャラクターたちが歌い「フォニックゲイン」を高めることでギアと呼ばれる超常的な力を持つ鎧のようなものをまとい、カタルシスのある戦いを繰り広げてくれます。

 

4期では、ライブシーンがカットされ、第1話丸ごと歌いながらの戦闘シーンで構成されています。

 

これによってある意味では荒唐無稽で突飛であるけれども、そういうフィクションラインの作品であることの表明もしていると思います。

 

しかしながら、2話からは強敵を相手取り劣勢に立たされる、苦渋の選択を迫られる展開が続きます。

「ギア」をまとわない人間では敵わない〈ノイズ〉という敵に襲われた知人の足を撃ち落として救う決断を下す、などです。

 

それによって、楽曲と戦闘の合致によるカタルシスは薄れていくと感じました。

 

それであればライブシーンにより戦闘シーンは抑制して、従来のシリーズでいう構成でよかったのではないでしょうか。

劣勢に立たされる戦闘シーンを超えてその先で逆転するときにカタルシスを持ってくることで印象は大きく変わったのではないかと思うのです。

 

全編を通しての話をするならば、4期は2期に極めて近く、キャラクターの配置も近い。

主人公チームに対して、違う理想を有する強い組織と、実際に戦闘相手として3人の女性キャラクターが登場し、最終的には敵組織側の男性を反目して彼女たちも主人公チームと共闘関係を結びます。

展開上の荒い部分などがあっても刺さる人間の心を掴んで離さなかった「熱さ」は今期では薄口になっている、と言わざるを得ません。

 

2つ目のポイント、キャラクター面についてです。

ここから、ネタバレ要素が多くなります。ご注意ください。

 

 

本作では著しく情緒が不安定なキャラクターがおり、それが作品のストーリーと合わせて納得度、作品のクライマックスでの熱量を冷ましてしまっていると思います。

 

そのキャラクターとは、上記でいう今回の敵側の女性キャラクター3人の中でリーダーである、〈サンジェルマン〉です。

 

彼女は、パヴァリア光明結社と呼ばれる錬金術師の組織において、ボスである〈アダム・ヴァイスハウプト〉の下で〈カリオストロ〉〈プレラーティ〉の二人の錬金術師を部下(同志)として実際に様々な活動を行い、理想を実現すべく何万という人間を殺め魂の力を収集しています。

 

その彼女が上記のように主人公たちとの共闘関係を結んでいく過程が、非常に納得しづらいのです。

 

例えば、何万と収集した人間たちの魂が足りず、理想を実現するための儀式を行えないとなった際、ボスであるアダムは、彼女に、同志であるカリオストロかプレラーティの命を生贄に捧げて儀式をするように提案します。

これにより、彼女はストーリーの最後まで引きずる強い不信感、反感をアダムに対して抱くようになります。

 

そして同時進行で、幾度となく圧倒的に優勢な戦いの勝機を逃しながら、主人公の響というキャラクターの「手を取り合えるはずだ」という言葉に心を傾けていきます。

 

同時に上記アダムの計画を聞いてしまったカリオストロは終盤にかけて主人公側との戦いに敗れて死亡したように偽り、アダムの目から逃れる作戦に打って出ます。

 

これは、サンジェルマンには伝えられておらず、サンジェルマン視点から見れば主人公たちのチームによって同志が殺されてしまったという構図です。

 

しかし、この段階でもサンジェルマンの『嫌なことを言われたことに起因するアダムへの不信感』は揺るがないのと同様に、『手を取り合える』と主張する響たちへの好意的感情も揺るぎません。のちにプレラーティが殺された(仮)時も同様です。

 

2期にて例えるならば、敵組織のマリア・カデンツァヴナ・イヴが同志である月詠 調と暁 切歌を殺されているにも関わらず主人公たちと普通に仲間になっていく、と考えるとわかりやすいでしょうか?

 

生贄に捧げる提案そのものは彼女たち錬金術師の悲願達成に必要なもので一見して筋が通っているように感じられるのに不信感を持ち続け、実際に同志手を下した主人公たちには悪感情を抱かないという点に、どうしても感情移入ができません。

『とどめを刺さず見逃し続けた自らの失策はさておき、正々堂々戦って殺されたのならば、相手を責めるまい』ということなのだろうか?

 

これにより、クライマックスでの共闘についても熱量を削いでしまっています。

 

また、それが『良きことのように』描かれていますが、何万という人間を殺害し魂の力を収集していた彼女の「私に彼女たち(主人公たち)の手を取る資格はない」というセリフに、『そりゃそうよ』なんてなっちゃうわけです。

 

サンジェルマンの在り方は全編を通しての『筋』と不可分である分、残念でしかありません。

 

彼女についての概要を話し終わったため、最後、3つ目のポイントについて書いていこうと思います。

 

最後のポイントは『ラストバトルについて』です

 

AXZの戦闘シーンにおいて、爽快感、熱さがあるシーンというのは非常に少なく、これは3期の戦闘構成にも近しいです。

 

が、3期ではボスであるところのキャロル・マールス・ディーンスハイムがマッチポンプ的に、自らが使役するオートマタたちを主人公たちに破壊させ、その力を刻み込み自らのものとするという理由付けはなされていました。

また、冒頭に書いたシンフォギアという作品に要求される完全合致がなされているという、視聴した人間誰もがわかる完成度の高さをもって『シリーズ瞬間最大熱量=カタルシス』があります。

アニメ史に残る熱量のシーンの一つである、といっても過言ではないでしょう。

 

対して、AXZのラストバトルは、主人公響とサンジェルマンの共闘の一部、そして主人公たちチームの二部で構成されていますが、上記のようにサンジェルマンとの共闘に共感ができず、また、最終的に最大の敵となるアダムが『すべて倒置法で会話する』というキャラクター付けが大いにテンポを損なっているのです。

 

この第一部の共闘において、響とサンジェルマンはことさらに「だとしても!」と叫び、アダムに抗って戦うものの、ここでアダムが倒置法でしゃべり続けるため掛け合いとしてテンポが悪いです。

本来倒置法というのは文章として最後まで読む、聞くことを前提に〈強調する〉意味で用いられると思います。

 

アダムが「これだけ絶望的状況だ。あきらめろ」と状況を突き付け続け、その言葉に対して「だとしても!」と抗うのならば理解できますが、しかし実際は戦闘の最中、アダムがしゃべるたびに倒置法によって戦闘が止まるのです。

 

そして「だとしても!」はどんどん掛け合いではなく文脈とは独立して何度も繰り返して叫ばれる形になります。

正直に感想を述べるならば「だとしても!」のたびに熱量に冷や水をぶっかけられるように感じました。

 

第二部に入る前の展開については、やはりサンジェルマンの在り方がネックになっているのは否めません。

 

そしてラストバトル第二部、ここについてもまた、残念であると言わざるを得ませんでした。

ここについて、熱いと感じた人がいたとしても不思議ではありませんし、それを否定する気はもちろんありません。

 

少し逸れますが、簡単にこれまでのクライマックスを書き出すと。

1期はデュランダルという〈完全聖遺物〉を入手し、ボスの操る〈完全聖遺物〉にフェイトでいう〈約束された勝利の剣・エクスカリバー〉のような攻撃で勝利。

2期はエクスドライブ・モードと呼ばれる〈フォニックゲイン〉がとても高まった状態でなる特殊な状態のパワーで、主人公たちが手をつなぐことでギア、鎧が連結して、ガオガイガーでいうところの〈ヘル・アンド・ヘブン〉で勝利。

3期はエクスドライブ・モードから響に他のメンバーの力を集め、ゴッドマジンガーのパロディです。

 

4期のラストバトル第二部はといいますと、敵はベルセルクのゾットとトリコのニトロを足して2で割ったような真の姿を現し、3期でマッチポンプのために敵側からもたらされた〈イグナイトモード〉という、狂戦士的モードで戦いますが、敵の強大さから仲間たちは一人また一人と膝をついてゆき、響はイグナイトモードの強化時の拒絶反応を抑えるギアの調整を受けていないため疲弊してしまいます。

 

そしてここからです。

 

絶体絶命の中、響は力を振り絞り、『その場にいる仲間たちの技をなぜか使えるようになり』真の姿のアダムの攻撃をしのいでゆき、捕らえられたところで仲間のアーマーパージという技で一度ギアを脱ぎ、懐に飛び込んで再びギアを纏うと、『なぜかギアは黄金錬成で金色に輝き力を増しており』さながら聖闘士星矢のゴールド聖闘士さながらの姿で「オラオラオラオラ」とペガサス流星拳かジョジョの奇妙な冒険もかくやという無数の拳をアダムに叩き込み、腹をぶち抜いて勝利します。

 

問題はここです。

 

響の【力】は手をつなぐことだ、というのは作中語られますが、ここでは手をつないでおらず、むしろ響が仲間たちの技を使うことに仲間たちは驚きの声さえ漏らしています。

3期では手はつないでいませんが、仲間たちは高まった〈フォニックゲイン〉を響に放ち、力を集結させています。

しかし、イグナイトモードはエクスドライブ・モードとは異なり、また力も映像的に放って響に集めたりなどはしていません。

 

これによって私が感じたものは、仲間たちの力をないがしろにしている、というものでした。

 

たとえばです。

1期に翼、クリスの仲間たちがデュランダルを響に渡す際に言ったセリフ「そいつが切り札だ!掴み取れ!!」というセリフと韻を踏むように、「響、お前が切り札だ。私たちがお前をアダムの懐まで連れていく!お前があいつをぶち抜いてやれ」とか翼あたりが叱咤激励し、クリスの援護射撃、翼たちの斬撃で道を開き、よろめく響への攻撃をマリアの技で守り、アダムに掴みかかられたクリスのアーマーパージで隙を作り、やっと懐にたどり着いた響が渾身の力でギアを纏うと奇跡が起こり黄金のギアを纏って敵を打倒する、でいいじゃないですか!

 

2期3期で響の力でラスボスを打倒する流れで熱量を確保していたことから、安易に響に一点集中としすぎている。

 

正直な話、このシーンにおいて1~3期でキャラクターたちに愛着を持っている人間ほど、このほかのキャラクターのおざなり感、お荷物感に監督の愛のなさを感じたのではなかろうか……

 

 

シンフォギアシリーズへの思い入れが強い分、初回からとてもとても長くなりましたが、以上をもって、シンフォギアAXZはシリーズ通しても非常に残念で酷い出来であったと私は思いました。

 

しかしBDはシリーズを追うときは見返しますし、楽曲CDも1~4期すべて持っているし繰り返し聞いています。

5期では、多少の荒さは吹き飛ばせる熱量を出してくれることに期待しつつ、よりブラッシュアップがなされていることを願うばかりです。

 

DVD、BD、楽曲は発売されています。

少しでも興味を持たれた方がいたら、ぜひ、視聴してみてくださいね。

 

ありがとうございました。